そんな想いが通じたのか、この春から教頭先生として同級生の吉原憲夫君が母校に赴任されました。 このチャンスを生かさない手はない、多少の無理は聞いてくれるはずと教室の利用に関して早速お願いしたところ夏休み期間中とかであれば使用にあたっての計画書等を提出すれば基本的には大丈夫だろうという返事でした。あとは学校側の行事等との関係でこちらの日程と合うかどうかというところまで話はすすみました。今後どうなるかはまだなんとも言えませんが、後世に語り継がれるようなものを残してみたいものだと今から興奮しています。今後また詳細は発表します。ご期待ください。個人的なたいへんちいさい想いで恐縮ですがお付き合いください。よろしくお願いします。
ここで40年前の中学校の校舎内に関しての自身の記憶をたどってみました。一週間ぐらいかけて自身の記憶のみで思い出してみたのですがひどいものです。思い出した所だけ書き出してみます。
校舎1階は中央通路で東西に分割されています。通路西側の始めが職員室で次が校長室。さて次はなんだろうか。さてさっそくあやしくなってきた。一階一番西端は家庭科室で間違いはないだろう。校長室と家庭科実習室の間には教室はあったか?。通路東側の始めは保健室だったような記憶。次が理科室?視聴覚室?(そんなものはない?)。一階一番東端が橋本先生の美術室だったのは自信あり。校舎外側に中山先生の技術家庭室。確か木工室と金属(加工)室とかいう名前だったような。一階東側の保健室から美術室までの間に少なくても二教室ぐらいはあったはずなのだがつながりません。2階は西側が1年生で東側が2年生の教室なのは問題ないはず。階段登って真正面が3組だったような。ということは学年5クラスだったから、東端から西端まで少なくても10教室はあるはず。それからすれば3階は3年生の教室の他に5教室があるはずなのだがかなりあやしい。図書室があったとすれば西端だったような。もしかしたら図書室は2階かもしれない。鈴木先生の音楽室は三階の東端に間違いない。後は理科室とか社会科室だとかありそうだが記憶がない。社会科の教材がしまってあった教室(部屋?)があったはず。理科室がないわけないし、その準備室もあったはずだが思い出せないというか自信がない。4階は西側階段の屋上に天体観測用のドームがあって(内部は見た記憶がない)、その真下が準備室みたいな部屋のつくりで、当時は生徒会用の会議室として使用していたはず。東側階段の屋上にはなにもなかったはず。給食室はどこだ。一階の西側の端っこに給食配膳室みたいな部屋があったような。その部屋から給食用の荷物運搬エレベーターみたいな仕組みで上の階に運ばれていた?記憶がかなりあやしい。給食用の料理を階段で運んだ記憶がないから、たぶんそんな感じだろうか。ダストシュートみたいなゴミを捨てる(集める?)仕組みがあったような記憶があるが、他の学校と混同しているのかもしれない。音楽室に個別の練習用の個室があったのは憶えているのだが、図書室の記憶がまるでない、ないはずはないと思うのだが・・・。
記憶なんてこんなもんです。それなり真剣に一週間思い出してみてこの程度です。確実にボケが進行しています。早期アルツなんとかかもしれません。悲しいです、かなり落ち込んでいます。わかりにくいのでイメージを画像処理してみました。これはあくまでも個人的な記憶をもとに作成したものです。
昭和51年 筑波東中在校時の校内見取図 その1 |
自身の記憶のみで作成したのが 「見取図 その1」 です。「二階の東端」 と 「三階の中央から東側」 の記憶がありません。自分は2年5組で自分教室のとなりの様子が思い出せない状態です。はあったはずの図書室がどこらへんになるのかも思い出しません。図書室ありましたよね?それとももともとなかった? いや 理研の小保方さんなみに自信をもって
「 図書室はありまーす !! 」 と言っておきます。
当時の生徒数は学年200名で全校で600名ぐらい。学年5クラスが基本型。現在は全校生徒で300名程度らしい。学年3クラスが限界のはず。とすると憶測だが二階だけで3学年が同居できる計算です。教室の配置は現在と当時とでは当然違うはず。記憶のみが頼りです。誰か思い出してください。お願いします。
昭和51年 筑波東中在校時の校内見取図 その2 |
自分で撮った映像で確認したのが 「見取図 その2」 になります。もう一部屋増えてしまいました。「×マーク」 が不明の部屋です。×マークのついた部屋だけで12部屋もあります。特に気になるのが二階の両端と三階の西端でしょうか。二階の1年生と2年生の境界には間に予備的な部屋があった?そんな部屋はない?とにかく疑問符だらけで謎は深まるばかりです。
またも前置きが長くなってしまいました。ここから本題です。ちいさい想いがふたつありまして、ひとつが3年3組があった教室(たぶん現在は違うはず)で、担任だった鈴木先生と昔を思い出しながら時間を過ごせたら楽しいだろうなという想いです。ただそれだけですがとてもワクワクしています。でも鈴木先生は 「暑いからやだ」 と乗り気ではありません。行動内容の説明がまだ不十分で主旨をご理解いただけていないので今後なんとか参加していただけるよう説得中します。ぜひもう一度教壇に立った先生が見たいです。ちいさい想いの1つめです。
それからもうひとつが屋上(4階)にあった生徒会議室の存在です。今は亡き生徒会長の渡辺久雄君との思い出の場所です。抜群の話術で立会演説会を盛り上げて会長の座を射止めた渡辺君。他に渡辺君と同じ筑一小出身でいいキャラの持ち主だった副会長の高梨純一君。書記が吉江敦子さんと水野真弓さん。他に杉田慶也君となぜか自分。全部で6名だったはず(ちょっと怪しい記憶)。何をしたのか何を話したのかまったく憶えていません。特別たいそうな事はしてはいないと思われます。でもなにか特別の部屋的な気分の高揚は憶えています。ただどんな風な部屋だったのかがかなり曖昧ですっきりしません。もやもやしてます。それはさておき、渡辺君とは中学時代は1年生の時と高校時代は2年と3年の時同じクラスでした。中学時代の彼は成績優秀で男子バレー部のキャプテンで生徒会長でとこれ以上ないぐらいの恵まれた中学時代を過ごしてます。本来であれば同窓会においてもリーダー的な立場でひっぱっていただきたかったのですがとても残念です。その部屋に行けばなにか思い出めいたものを思い出すかもしれません。吉原教頭先生の話しでは、生徒会議室だった部屋は現在は倉庫代わりで荷物でいっぱいだそうです。昔の面影はないのかもしれません。それはそれでいいでしょう。特別なにもなかったとしても写真の1枚でも残せればきっとそれで気が晴れるんだろうと思います。
渡辺君との一番の思い出は高2の時の「歩く会」(体育関連の学校行事で長い距離をただひたすら歩くというもの)の時の事です。この年は筑波山のつつじヶ丘が集合場所でした。一般の集合時間は昼間の当たり前の時間なのですが、なぜか渡辺君と谷口佳之君と斉藤君(土浦の人間)と自分の4人で前日の夜中に筑波山神社に集合(若かったんだろうと思われます)し、近道だし絶対迷わないという渡辺君の強い提案で夜中の真っ暗なケーブルカーの線路道(傾斜45度はあるはずで今は絶対無理)を登りました。途中のトンネル通過の時でたしか夜中2時ぐらい。正直怖かった。へろへろになりながらも御幸が原の駅(ケーブルカーの上側の駅)近くまでさしかかった時に早出の駅員さんに見つかり注意されひたすら逆戻りして逃げました。めげずに途中から山道に入ってなんとか男体山に登頂。渡辺君おすすめの絶景の岩場から見た朝日は格別でした。狭い岩場の突き出しに4人並んで何を話したんでしょうか。渡辺君は当然地元である筑波山の事はとにかくよく知っていましたね。星座の事もいろいろ教えてもらいました。もう一度あの岩場から朝日を見てみたいものだとちいさい想いの2つめです。
とりあえず その1 でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿